本文へスキップ

お知らせファミリーヒストリーの調べ方』

 【調べてみたらこうなった−家族史づくりの意外な効果編】
 その2 多様な歴史観を持てるようになる(中)



 秋山光朝を起点に家族史的なアプローチから源氏の流れを考えてみた時、まず、

 源氏の本家ってそもそもどこだろう?

という疑問が、私にはわいてきました。皆さんも、清和源氏とか村上源氏に嵯峨源氏、様々な源氏を耳にしたことがあるでしょう。このうち、どこが本家なのでしょうか?。

 ところが、少し調べてみた時点で、そもそもそう考えること自体、認識間違いであることがわかりました。

 源氏とは、平安時代、天皇の皇孫などで皇位を継ぐ可能性のない者が皇室を離れるにあたって(専門的には臣籍降下と言います)、平氏とともに、比較的多く与えられたポピュラーな姓でした。

 当時の天皇には皇子が10人ぐらいは平気でいたので、その子(皇孫)となると、もうかなりの人数になります。そこまで皇族としては面倒を見られないということで、皇室を離れなければならなかったのです。

 特定のひとりが名乗ったことに始まったのであれば、本家が明確になるのでしょうが、元皇族というぐらいの意味で、たくさんの人数がいたので、源氏の中でどこが本家というのもナンセンスな話です。強いて言うならば、

 すべての源氏は天皇家の分家である

といったところでしょう。

 ただ、時代が下るにつれ、多くの源氏の中から武士となって、力を付ける一族が出てきました。それが、清和源氏(清和天皇を先祖に持つ源氏)の一派で(あくまで一派です)、河内の国を基盤とした河内源氏です。

 ここから奥州での前九年の役で名をはせた源頼義が出ました。後世、武家として一般にイメージされる源氏とは、おおむねこの頼義の子孫になります。

 頼義の長男が、八幡太郎と言われた義家で、その子孫が頼朝であり、義経であり、足利尊氏です。ほかにも、新田氏や今川氏もこの系統になります。

 これに対し、頼義の三男が新羅三郎と言われた義光で、その子孫が常陸の佐竹氏であり、武田氏をはじめ小笠原や南部といった甲斐源氏各家になります。秋山光朝はこの系統に属します。

 ということで、河内源氏の一族に限って言えば、長男である義家の流れが嫡流とも言えますが、義家亡き後、義家の子とおじにあたる義光の間で争い事になりました。今流に言えば、「相続で争族」です。

 そのため、これ以降、両系統の間で親しく親族づきあいをしていたとは、とても思えません。

 しかも、その後 、義光の流れは常陸の佐竹氏にしても、甲斐の武田氏にしても、それぞれの土地で独自に力を付けていきます。

 こう考えてくると、頼義から1世紀もの後、頼朝の代になって、甲斐源氏が頼朝のことをどれだけ「本家筋」と思っていたか、はなはだ疑問です。

 実際、源平の争乱の初期の段階では、武田信義は頼朝にくみせず、独自に天下をうかがう動きを見せていたことがわかっています。

 さらに、この時代、甲斐源氏の中でも各家の関係がデリケートだったことが見えてきました。(続く)

前のページ 次のページ



 【関連書籍】


  ◆『ファミリーヒストリーの調べ方』 目次

   はじめに ファミリーヒストリー調査はここまでと割り切ればそれほど難しくない
   1章   ファミリーヒストリーとは何か
   2章   どこで割り切るか−目標の設定
  【家系図作成編】
   3章   戸籍を取る
   4章   墓碑銘を調べる
   5章   同時に戒名を記録しておく
   6章   代行業者に委託する際のポイント(上)
   7章   代行業者に委託する際のポイント(中)
   8章   代行業者に委託する際のポイント(下)
  【家伝記作成編】
   9章   兵籍簿を取り寄せる−戦争体験を残す一級史料
   10章    軍歴照会の方法
   11章    所属部隊の情報を調べる
   12章    親族にヒアリングする際のコツ
   13章    街は家族の生活の舞台、その成り立ちを知る
   14章    家伝記はデジタルデータで作ろう
   15章    目次を考えて、実際に書いてみよう
  【家訓作成編】
   16章   家訓はそもそも必要か(前)
        家訓はそもそも必要か(後)

  【調べてみたらこうなった−家族史づくりの意外な効果編】
   その1   歴史が妙に身近に思えてくる(前)
        歴史が妙に身近に思えてくる(後)
   その2   多様な歴史観を持てるようになる(上)
        多様な歴史観を持てるようになる(中)
        多様な歴史観を持てるようになる(下)


   以降随時追加更新